映画 「一茶」について思う事 02(小林一茶という異常な人間性)

前回の記事「映画 「一茶」について思う事01(公開停止中及び救いの手)」は映画「一茶」の公開メドについて書きました。その続きですが、モデルとなった小林一茶自身について興味を持ったので、wikipediaの資料を参考に彼の一生を調べて見ました。

小林一茶ですが、1763年5月5日に誕生しました。

一茶の一族である小林家は、戦国時代の混乱期が終わった直後に柏原へやってきた柏原でも有数の旧家であり、名主を務めた中村権左衛門家、本陣であった中村六左衛門家に代表される中村一族に次ぐクラスの家柄と目されていた程、中々に裕福な家庭に生まれた様ですね。

しかし、3歳の時に母が他界してしまった事で、随分と幼少期は辛い人生となってしまったみたいです。というのも、5年後に父が再婚し後妻(継母)が嫁いできましたが、この継母との関係が非常に険悪であったからです。
さらに、かわいがってくれた祖母の死もショックを受け、気疲れによって重体となる程の病気になってしまったのは気の毒としか言えません。結果、父親の計らいによって、15歳で江戸へ奉公に出る事となった様です。
ちなみに、一茶の故郷である柏原では、農家の子弟が江戸に奉公に出る事自体はそれ程珍しい事では無かった様ですが、一茶の様な裕福な農民かつ長男が奉公に出る事は異例だったみたいです。何にせよ、幼少期は辛い人生だったんだなと感じました。

続いて、江戸に奉公に出た後の一茶の消息ですが、10年後の1787年まで何故かぷっつりと途絶えます…。
wikipedia以外の資料を見ても確かに奉公に出ていた期間の活動が曖昧で、「書家市河寛斎の使用人であったのでは?」「頼った先は寺院や医者であり、住まいも安定しなかった可能性がある」「武士や町人の使用人、物売り、荷運び等、大変な苦労をしたと思われる」…、その他、様々な定説があるみたいですが、まあ奉公を通じて俳句の世界に入り、徐々に活躍していったのかな?と思っています。

なお、今回の映画の概要では、

どこの奉公先でも長続きしない一茶だったが、やがて俳句の世界に独自の感性を表現する術を見出し、俳諧師となった。

という内容です。まあ様々な奉公先に訪れていた事は事実なのでしょう。

10年後の25歳の時からは所在が明確になり始め、二六庵(小林竹阿)に師事して本格的に俳諧を学び始めます。
30歳の時には江戸を発って東海道をのぼり、36歳の年まで足掛け7年、業俳のプロとして京大阪、大和河内・四国九州等の各地を俳諧行脚したとの事です。

そして39歳の時に帰省するのですが、帰省してから約1ヶ月後に父親が死去してしまいました。

父の死によって遺産の分配がなされるのですが、何と遺産相続の件で継母及び一茶の弟と12年の間、争う事となります。
その間、一茶は再び江戸に戻っては俳諧の宗匠を務めながらも、度々帰省しては遺産相続権を主張し続けたとの事です。

小林一茶の歴史にて、この遺産相続権についてはかなり話題にも上がっております。
この争いの要因ですが、

一茶が奉公に出た後から帰省するまで、一茶の弟(仙六)は継母と実家で懸命に働き、一家を盛り立てていた。これは一茶が故郷を離れた時よりも大幅に持ち高及び財産を増やした成果もあり、弟の仙六曰く「小林家の財産は自らが増やしたもの」と自負していた。
なのに、ずっと実家を留守にしていながら、父の死の1ヶ月前にいきなり帰省し、さらに今まで築き上げた財産を、何もしていない兄(一茶)と折半するなんて事は全く納得がいかないと弟が主張していた。

wikipediaを参考に、簡単にまとめました。弟の言い分は確かに分かりますね。

第一、一茶が急遽39歳で帰省するにあたり、その経緯ははっきりしていないのです。
父親の病気の知らせを受けた事が帰省のきっかけとなったとの説があれば、父の病気との関係は無く、本来の目的は帰郷しての後の生活維持の為に一茶を師匠とした俳諧結社、いわゆる一茶社中の結成を開始する為であったとの説もある様です。また、父が農作業中に突然倒れたとしており、帰省との関連性はやはり無いという説もあったりと…。
確かに、「39歳で帰省した」という出来事しかはっきりとした事実は無い様ですね。

さらにwikipediaの一部説明では、


現実問題として父が倒れた時期は農繁期に当たっていて、継母と弟は日々の農作業に追われ、勢い、父の看病は一茶に任される形となった。これは継母、弟にとって終始父の看病に当たっている一茶が重態の父を籠絡(上手く丸め込んで自分の思う通りに操る)するのではないかとの疑心暗鬼を深めることにも繋がった。


と書かれています。なかなかショッキングな説ですね。

しかし、最終的にはお互いに和解し、亡き父親の13回忌にて、半分までとはいかないまでも、遺産のおよそ1/3を受け取る事で決着したそうです。当時の常識では「相続権無し」と見なされる長年の争いにおいて、一茶の要求が正式に通ったのです!
理由として、

・生前に父親が、遺産を一茶と弟で均分相続するよう遺言した事。
・口約束ではあったものの、継母および弟に遺産の均分相続を認めさせたという事。

…まあ父親の遺言であった以上は均分相続は正当な理由として成り立ったのでしょう。
ですが、均分相続となった経緯が生々しいものであったみたいです。以下、コチラより一部を抜粋しました。


【誇りをもって誇りを捨てる】

一般に芸術家の気質のひとつに、
「俗物や俗界を蔑視する」
というのがある。これは俗人に対する芸術家の精神的優位を示すもので、誇り、うぬぼれ、カッコつけ、気取りなどによって示されるが、何れにしても、
「自分は俗人より一段高い精神的次元に存在している」
という自覚である。錯覚の場合もある。しかし本人にすれば、その高い精神性を保ち続けることによって、
「おれは俗物ではない」
と思い込むことが、自分の芸術活動を支える唯一のパワーになる。
では、こういう連中が蔑視する”俗物性”というのはいったい何だろうか。
卑しい、俗っぽい、みにくい、よごれている、欲ばり、自分のことしか考えない、ナリフリかまわない、他人をきずつける、アコギ、あくどいなどの諸行為だろう。
一茶は俳人だ。当然、俗界から離れ、
「高い精神的次元に生きている」
はずだ。ところが一茶はそうではない。この父親の死によっておこる遺産争いに一茶は全精力を注ぐ。生命を燃料として完全燃焼させる。中途半端な争いではなかった。本気で争った。つまり一茶は俳人として軽蔑する”俗物性”を、完全に発揮するのだ。しかもその激しい闘いは、父親がまだ死なないうちから始まった。はっきりいえば、病の床についている父親の枕元で始められたのである。
父親が死んだのは享和元(一八○一)年五月のことだが、弟と義母との遺産争いは、すでに四月から始まっている。弟と母親はいいつのった。
「あんたに相続権はありません」
「いや、ある」
一茶はいい返す。弟は、
「そんなことをいっても、お兄さんは十五歳のときにこの家を出たじゃありませんか。あのとき、このお父さんからなにがしかのお金をもらったはずです。それでお兄さんの分は済んでいる。お兄さんがいなくなったあとの小林家の財産は、みんなわたしとお母さんとで汗水垂らしてつくりあげたものです。お兄さんの分は一文足りともない」
「そんなことはない。いまの小林家の財産は、何もお前とお母さんとだけでつくったわけでもなかろう。お父さんだって働いてきた。ましてわたしは小林家の長男でもあるし、家を出たときに相続権を放棄した覚えはない。相続権はある。お父さんが死んだら、必ずわたしも遺産をもらうよ」
「そんなことはさせませんよ。お兄さんには、一文たりとも渡しません」
「渡すさ」
一茶は引きつった笑いを浮かべた。
そして、父親とふたりだけになったときに、
「お父さん、約束通り遺言状を書いてくれよ」
と迫った。父親は、近ごろの一茶の看病ぶりが気に入っていたので遺言状を書いた。内容は、
「この家の財産は、すべて一茶と弟の専六に二等分する」
ということだった。
いわゆる均分配分だ。
全体に日本の遺産配分は、「長子相続」制が採られているが、この頃の信州ではこの「均分配分」がおこなわれていたという。したがって父親が遺言状を書いたのは、必ずしも小林家独特のものではない。地域一帯におこなわれていた遺産配分方法を、文書にしただけなのだ。一茶は勝ち誇った。そこで弟とつがにこの遺言状を示した。ふたりは目を見張り、顔を見合わせた。
(一茶にしてやられた!)
と感じた。


…「童門冬二」という書籍から抜粋されているとの事ですが、これを見ると、はっきり言って心の優しさなど微塵も感じられません。ただただ悪知恵を働かせて遺産を勝ち取ったとしか思えませんね。父の看病に当たっている一茶が重態の父を籠絡(上手く丸め込んで自分の思う通りに操る)するのではないか、との疑心暗鬼が出てしまうのも致し方ないでしょう。
もちろん、「正当な理由」を盾に相続争いに立ち向かったのですから違法でもなんでも無いと思いますが、そこには人間としての「良心」がありません。これでは継母および弟と10数年間も争いが絶えなかったのも納得です。
ここまではっきりとした言葉のやり取りが存在するのか定かでは無いですが、あまりにもリアリティがありますね。

ちなみに、コチラの記事にて、下記意見を見つけました。


「一茶の記した『父の終焉日記』に父を献身的に看病した逸話があるが、自ら正当化するために相当脚色されていると私は見ています。一茶の性格は『雀の子』や『痩せ蛙』の作風とは真逆の、強欲な人物だったのではないか」(高橋氏)


「童門冬二」での内容を見てしまうと、私も同じ意見と言わざるを得ません。何より本人の日記ですから、いくらでも綺麗事は書けるでしょうしね。
何にせよ、この相続争いの経緯は、小林一茶という人物を語るうえで決して褒められる部分では無いでしょう。

そしてここからが恐らく一番注目されている一茶の歴史かもしれませんが、遺産相続後に52歳で初めての結婚をする事となります。お相手は菊(きく)という有力農家の娘で、その時の年齢はなんと28歳です。…まあ現代でも年の差カップルや年の差婚というものは割と一般的となったのでそれ程驚く事では無かったのですが、親子ほど年が離れた者同士の結婚だったわけですね。
とはいえ、50歳を過ぎて、ここまで若い女性と夫婦になる事ができ、遺産も受け継いで順風満帆な人生を送れたと思いきや、結婚後も不幸が一茶に襲いかかります。

というのも、妻との間に3男1女を授かるも、生まれた子供達は皆幼くして全員亡くなってしまいました。さらに、妻の菊も37歳という若さでこの世を去ってしまったのです…。

長男 千太郎は誕生後28日で他界してしまい、続けて誕生した長女 さと、次男 石太郎、三男 金三郎も皆、満2歳を迎える事無く夭折(若死に)してしまったとの事です。ショックどころではなく、悲しさを通り越して自分の運命を呪いたくもなります…。本当に辛い事です。

ここまで聞くと結婚してからも何とも不幸な人生だったんだ!と誰もが思いますが、実は結婚後の一茶は異常者と思える様な生活を送っていたのです。

まず、自分の子孫を残したい気持ちが強かったのか定かではありませんが、妻の菊との間におびただしい回数の性行為があった事がはっきりと書かれています。以下、コチラより一部抜粋しました。


…菊が帰ってきてから仲直りをし、壁一つ隣り合わせた義弟の仙六一家を気にもせず、54歳の男と30歳の女は、まるで20歳の男女のように賑賑しく睦みあったようだ。ちなみに、この8月の日記に書かれている交合回数がどのようなものか見てみよう

八日  晴 菊女帰ル 夜五交合
十二日 晴 夜三交
十五日 晴 婦夫月見 三交
十六日 晴 白飛ニ十六夜セント行クニ留守 三交
十七日 晴 墓詣 夜三交(母の命日)
十八日 晴 夜三交
 廿日 晴 三交
廿一日 晴 牟礼雨乞 通夜大雷 隣旦飯四交(父の命日)
この「交」とあるのが交合回数。
13日、14日に交わりはないが、この日は門弟回りをしていて一茶は家を空けていた。
15日、夫婦で月見をしてからの交合ではなく昼3交し、夜、夫婦で月見をしている。
21日などは、隣村の牟礼で雨乞の祈祷、夜どおし大雷、壁ひとつ隣の家の義弟仙六方で亡父の供養をし、朝食を馳走になったあと、白昼4交に及んでいる。

(以下略)


要は性行為を行なった頻度もそうなんですが、その行為を逐一日記書いていたそうです。
巷では「性豪だ」「50代にもなって半端ないな」という、ある意味尊敬の念や羨ましさ、そして呆れの感想が大半でしたが、まあはっきり言ってしまうとどこまでも強欲で理性を抑えようとする意思すらなく、妻への愛なんて微塵も感じさせない、異常な人間性である事が分かります。

子供が欲しいからこそ営みがあった事には何も疑問は無いですが、すでに妊娠していたであろうにも関わらず連日連夜に及んで性行為をしようとするのはあまりにも妻の母体への配慮がありません。
第一、性行為の回数を記している自体、単に自分に対して「まだまだ子供を作れる力がある、これだけ性行為を行える程自分は優れているのだ」という自慢、自惚れでしょう。建前で「お互いに愛しているからこそ何度も寝たのだ」と言い訳しようが、この日記こそが、妻を快楽の道具としてしか見ていなかった事の証明です。わざわざ回数を具体的に残して何を伝えたかったんでしょうか?それとも、妻との行為が初めてだった為、つい嬉しさのあまり記録として残しておきたかったのでしょうか?(笑)

こんな事は正常な人間なら誰でも分かると思いますが、本当の夫婦(男女)の愛において大切なのはセックスではありません。お互いに心が通じ合い、一緒にいる事で安らぎを得られる、そしてこれが重要ですが、

その境遇をどこまでも感謝出来る

それが本当の愛です。心が満たされていればセックスをしなくても十分に幸せを感じられるのは誰もが経験したと思います。その愛が実を結んで結婚に至り、幸せな想いと共に自然と子供を授かる事で、幸せな夫婦生活が送れるのではないでしょうか?

wikipediaより一部抜粋しますが、


妻も迎えた一茶は、これまでは節制していた酒も時々深酒をするようになり、飲酒をする機会も増えた。文化12年(1815年)12月、江戸に出ていた一茶は友人宅で大酒し、夜中に板の間に放尿してしまった。一茶自身も生まれて初めての失敗としており、この頃から生活に緊張感が見られなくなってきた。しかし一茶は安定した生活に安住することは叶わなかった


この様に、結婚後は飲酒と性行為を繰り返す人生を送ったのでしょう。本業である俳諧は怠らなかったものの、ひたすら快楽に溺れた結果、子供はおろか妻をも失ってしまいました。
子をいつくしむ母の姿や、愛しい我が子を失った親の嘆きを綴った俳文も残っておりますが、自分の子供ですから愛を持つ事はなんら自然な事です。誰だって自分の子供は可愛いのです。しかし、ここまで異常な人間性を見せつけられた以上、この俳文で同情出来るものではありませんね。

その後ですが、62歳で再婚をしたものの身分や生活習慣において妻とは折り合いが悪く、すぐに離婚してしまったそうです。そして3回目の結婚は65歳。持病が悪化し体調が優れない日々が続いていたものの、3人目の妻との間には1児をもうけた後に、同じく65歳にて亡くなりました。初婚時にあれ程苦しく悲惨な思いを経験したにも関わらず、どんなに病に侵されていても一茶が死んだ後に妻が子供を授かった様なので、死ぬまでひたすら快楽を求めていたみたいですね(意地でも子孫を残したかったのかもしれませんが)。晩年、一茶の家が家事で全勝してしまう事故も起こってしまい、最後の最後まで災難に会い続けるという実に壮絶な人生を送りました。

…俳諧師として大成したのは事実かもしれませんが、あまりにも人間的に尊敬出来る部分が無いと感じました。

「いや、これだけ美しい俳文を書けるのだから、そこまで悪人だったとは言えないのでは?」
「性行為を記録に残す事についてはあまり良い趣味とは言えないが、小林一茶ならではの記録癖なのでは?自らの生活そのものまで全て世に晒して生きていく程の作家魂を持っていたのだ。」

いろんな意見はあるでしょうが、帰省する前の一茶の一面が描かれている貴重な資料を見つけました。以下、コチラより一部抜粋します。


この俳句のことはエピローグでも取り上げますが、私の抱いていた「小林一茶の俳句」とは全く異質のものです。急に、小林一茶を調べたくなりました。やみくもに、井上ひさし著の『小林一茶』を読みました。この本は、いわば戯曲風「小林一茶伝」であります。一茶(本名弥太郎)が江戸に出て、俳諧師として独立するまでの前半生記です。この本によって、私は小林一茶の意外な人物像と俳風を見せつけられ、さらに「びっくり」しています。

井上ひさし著の『小林一茶』を読み進むと、私が持っていた小林一茶像がガタガタ崩れそうになりました。まるで別人のような一茶(弥太郎)と直面したからです。次は、その要約です。
(1)一茶は江戸に来た早々に、懸賞俳諧に巻き込まれた(詳細省略)。それをきっかけに、俳諧に強い関心を持つことになった。
(2)25歳の時、二六庵(小林竹阿)に師事して本格的に俳諧を学ぶ。
(3)30歳の3月、江戸を発ち東海道をのぼる。そして、36歳の年まで足かけ7年、京大阪・大和河内・四国九州などの各地を俳諧行脚した。(業俳というプロの生活に入った)。
※松山城で、「御殿様主催の観月会」で絶賛された句 船頭よ小便無用浪の月
一茶はこの句を「真の滑稽です」と自画自賛している。

(4)39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが1ヶ月ほど後に死去、以後遺産相続の件で継母と12年間争う。一茶は再び江戸に戻り俳諧の宗匠を務めつつ遺産相続権を主張し続けた(※)。
※晩年の俳句の作風からは想像もつかい執拗な自己主張。

先に、「ガタガタ崩れそうになった」と書いたのは、以上の経歴ではありません。戯曲風に書かれた井上ひさしの「小林一茶伝」が、私が抱いていた一茶像と全く違ったものであったからです。
(1)戯曲の主人公・弥太郎(小林一茶)は、猪首・赤ら顔・小肥・怒肩であった。
(2)一茶と交わった連中から、凶暴・短気・自信家・女に薄情などと酷評され、最初の奉公先が錠前屋であったことから、四百八十両の犯人扱いまでされている。
※井上ひさしは、信濃毎日新聞社発行の『小林一茶全集』を何回となく通読している。「戯曲に登場する人物は、全て実在し、この戯曲の扱う事件はなにによらず史実である」と言い切っている。

江戸の一茶を語る時、一茶(弥太郎)・およね・竹里(ちくり・俳諧同人)の三角関係を抜きにすることはできません。戯曲では、およねに「俳諧が憎かったからではないが、弥太郎って男はあたしを捨てて俳諧を選んだ。竹里なんか大きらい。声を聞くだけで鳥肌がたつ。あたしの心はそういっている。ただ、からだはウンと頷いているんだょねぇ」と言わせています。次は、一茶が女を詠んだ珍しい句です。意外な意外な俳風です。


小説家である井上ひさし氏の名前は知っていましたが、『小林一茶全集』に精通しているとは知りませんでした。ここまではっきりと断言出来るのであれば、信憑性は非常に高いでしょう。
凶暴・短気・自信家・女に薄情と、ほとんどヤンキーもしくはヤクザに近い風貌だったのではないでしょうか?酷い有様ですね。特に女性関係については相当だらしなかったと思います。ていうかそう言い切れますね。

というのも、遺産相続決着後から結婚に至るまでの間に大病に侵された際、しばしば皮膚疾患にも悩まされる様になるのですが、その原因が梅毒であったからです。以下wikipediaより一部抜粋します。


一茶は文化10年(1813年)1月の遺産問題最終決着後、北信濃各地の門人たちのところを精力的に回っていた。ところが6月初旬から尻にできものが出来てしまった。6月半ば過ぎには悪化して痛みがひどくなって高熱も出て、善光寺町の門人宅で床に臥してしまった。医者に見せ、薬を飲んだり灸をしたりしたものの、なかなか病状は改善しない。一茶が病気で倒れたとの知らせを聞きつけた門人たちが大勢一茶の見舞いに駆け付け、不仲であった弟、仙六も蕎麦を持参して一茶を見舞った。結局一茶は75日間も床に臥した後、ようやく動ける体に戻ったのか、その後も門人宅を回って9月半ばに柏原に戻った。この頃から一茶はしばしば皮膚疾患に悩まされるようになる。一茶は梅毒に罹っており、それが皮膚疾患の原因ではないかとの説もある。一茶自身も自らが梅毒に罹っているのではないかと疑っており、梅毒の医学書を入手しようとした記録が残っている。


言うまでもなく、梅毒は性病の一種です。要は性行為を行なう事で発生し得る感染症です。初婚前の一茶がこんな病気に何故罹っていたのでしょうか?
そうですね、それだけ女遊びが激しかったからでしょう。1人の女性と性行為していきなり感染する確率は低いでしょうから、恐らく何人もの女性及び娼婦と遊んでは抱いてきたんでしょうね。初婚が嬉しくて性欲が爆発したなんて事は無く、常日頃から女遊びにふけっていたのでしょう。
これでは結婚後の異常な回数も、単に欲のはけ口を妻に求めただけだと思われても仕方無いですね。

こうなってしまった原因は間違いなく、母の死によるものでしょう。母の死後、幼少期に家族から愛されて来なかった事が原因で、グレてしまったのだと思います。
これは現代でも言える事ですが、グレてしまう人は幼少期に辛く寂しい思いをした子達がほとんどだと感じます。それに加え、付き合う人間や環境等による影響によって不良や暴走族になってしまうのではと思います。小林一茶の空白の期間は、そんな状況での人生だったのでしょう。そういう意味では気の毒ではありますが、小林一茶の作品は評価出来たとしても、本人自体には評価出来る部分はありません。

自分なりに調べてみましたが、幼少期の辛さこそあったものの、本当に素晴らしい俳諧師であったのか、本当に評価出来る俳文を残してきたのか大いに疑問が残る結果となりました。少なくとも、人間性についてはとても評価出来るものでは無かったです。

…小林一茶の映画を作る必要なんてあったんでしょうかね?
ネットを見る限り、ほぼ何処のサイトでも、

「佐々木希のベッドシーン」

を大々的に宣伝するばかりです。もう小林一茶関係無く、単にリリー・フランキーと佐々木希のセックスシーンが最大の見どころと言わんばかりで、それでお客を釣ろうとしている魂胆が見え見えですね(笑)。本当に考えが単純というか、低俗ですね。まあ佐々木希のファンにとってはぜひとも観たい気持ちがあるんでしょうけど。

改めてコチラのサイトから一部抜粋しますが、


…加藤尚彦さんも「骨を折るつもりだった」そうなのですが、本編の関係者向け上映会で「激しい性描写の多さ」が引っかかったといいます。


相当セックスシーンに力を入れたんですね、松田貢氏は(笑)。こんな事では、小林一茶の人生を題材にした「アダルトビデオ」を作りましたと勘違いされても仕方ないです。
こんな事だから、恐らく公開中止という天罰が下ったのではないでしょうか?そうとしか思えませんね。映画はその国の文化・芸術を表す媒体です。低俗なものに頼らず、もっと心から感動出来る作品を作って欲しいものです。

まあどうせ最終的には出資者も決まり、公開という流れになるのでしょうけど、私個人はこの映画を観る事は無いでしょう。小林一茶の素晴らしさを知るなら、単に彼の作品集だけを読んで満足するだけにした方が良いかもしれませんね。

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